セイレンチュウ..

ノーチラスを歌いました

概要

ノーチラスについて書いていきます。

この記事の対象

  • ヨルシカファン



本編

昨日、半年ぶりに歌ってみたをあげた。

院試勉強で忙しかったので久しぶりの投稿。

ノーチラスはヨルシカの始まりの曲といっても過言ではない。初期の頃からn-bunaさんの中にエルマとエイミーの物語、ヨルシカのコンセプトの構想があったことを踏まえると、この曲は大きな意味を持つ曲だ。

「深い眠りから覚める曲。浮上のメタファー」であるとどこかでn-bunaさんが語っていた。
この曲は、エイミーの後を追うだけだったエルマが自分一人で先へ進んでいくことを決心した曲だ。

ヨルシカの根本にエルマのコンセプトがあるとすれば、この曲はまさにヨルシカの原点の曲と言ってもいい。ヨルシカが好きであればあるほど、この曲は良さを増す。

だから僕も、初めて聴いたときからずっと歌いたいと思っていた。

しばらくして、TZ Sound Worksというyoutubeチャンネル(TZ Sound Works - YouTube)の方がノーチラスの生音instをあげているのを発見した。
聴いてみるととってもクオリティが高く、これでノーチラスが歌えるぞと思うと居ても立ってもいられなくなってすぐに大学の防音室を予約した。



問題はどうやって歌うか。

ヨルシカの楽曲は自分の音域よりやや高く、どうしても一部に裏声が入ってしまう。
裏声と地声の切り替わりが多いと、歌う難易度は上がるし、少し聞き辛い歌になってしまう。そういう経緯もあって前回歌った「だから僕は音楽を辞めた」は-3のキーで歌った。

でも、この曲は原キーで歌いたかった。出来るだけ原曲の世界観を崩さないで歌いたかった。理由がある。


少し話を脱線して、自分がなぜ歌ってみたをあげているかの話を書いていく。

「歌ってみた」という文化の起源はボカロの曲を人間が歌ってみたらどうなるか、という発想だろう。
ボカロには人間にない良さがあり、人間にはボカロにない良さがあるので、どちらかが廃れるということなく今まで二つとも続いてきている。

僕はニコニコ動画でボカロを聴いて、一部のボカロ曲は、作者が人間の感情を描いて作っていて、ボカロはその歌い手を担っているに過ぎないという印象を受けた。
人間感情の代弁者としての役割は、ボカロではなく人間が良さを出せるフィールドだと僕は思う。少なくとも自分はそっちの方が好み。

だから自分の好きな曲をもっと好きになるために自分で歌うことにした。つまり、自分が(人間が)歌ったものをボカロの原曲より「聴きたいから」歌う。

基本的にこういうモチベーションで歌っている。
ひょっとすると、原曲を軽んじているとか言われるかもしれないが、そんなつもりは全くない。
ボカロの方がいいと思っている曲もいっぱいある。
「一部の曲で」「僕は」人間が感情を込めて歌唱したものの方が聴きたい、というだけの話だ。好みの問題とも言える。

そういうわけで、僕の歌ったものを一番気に入ってるのは僕自身だ。そこだけは絶対の自信がある。


話を戻す。
ヨルシカの楽曲については、このモチベーションは全く当てはまらない。
原曲より人間が歌った方が好きだから、聴きたいから歌っていたわけだが、ヨルシカの楽曲はそもそもsuisさんという人間が歌っている。
suisさんの歌い方に不満があるかというとそうではなく、むしろ大好きな歌い方をされている。自分が歌って原曲を超えることはない。

つまり、上位互換の作品を産むために歌っているわけではないということだ。
では、何のために歌うのかというと、「聴きたいから」ではなくて「歌いたいから」

歌うことで、ヨルシカという世界観に自分も入り込めるから、歌いたいのだ。

だから、僕自身がヨルシカを歌うのであれば、原キーであることに大きな意味がある。

「だから僕は音楽を辞めた」のときも初めはそのために原キーで録音していた。でも、あのときの僕の技術ではどうしても歌いきれなかった。
そういうわけで諦めて-3で歌ったのが前回だった。

今回は「だから僕は音楽を辞めた」に比べて、ギリギリちゃんと歌えそうだったので頑張った。

それぞれどんなことを考えて歌っていたのかを書いていく。

まず1番。
suisさんは全体的にしっとりめに歌っていた。でもMVを見たときに、1番のサビでエルマは涙を流していた。
だから叫ぶことにした。というより、自然と叫んでいた。
僕の中でこのノーチラスという楽曲はMVと一体化して心の中に存在している。だから、MVに合わせた歌い方を自然としてしまっている気がする。

2番は、MVではエイミーの回想シーンだった。
旅をしながら人生の終わり方を考えるエイミーを想う、エルマの視点で歌った。あくまでノーチラスを歌っているのはエルマだから。

AメロBメロは歌詞通りの感情で「何がしたいんだろう」という無力感を想像して歌った。「人間なんてさ、見たくもないけど」は少し心を締め付けられるように。
サビは激しい感情を1番よりは抑えて綺麗めに歌った。「今日を泳いで」のところはもっと強く歌うこともできたが、なるべく優しく歌った。(張らないと出ない音域だったので難しかったが)

Cメロ、「丘の前には君がいて〜」からは二人の想いがシンクロする場面だ。エイミーを追いかけて同じ場所を旅するエルマが、エイミーの気配を確かに感じつつ、でも「さあ、二人で行こう」という言葉には応えられない、そういう悲しさを感じながら歌った。

「笑いながら、顔を寄せて、さあ、二人で行こうって言うんだ」の「二人で行こう」はなるべく優しく歌った。エイミーはきっとそういう風にエルマに語りかけるだろうから。
「夏草が邪魔をする」は森の教会でエイミーの影を茂みに見つけて追いかけるけど、何もできずに見失ってしまったシーンを想像をして歌った。この歌詞はエイミーと一緒に行くことはできない寂しさと儚さを端的に表していると思ったので、できるだけ細い声で歌った。
あと、原曲では深めのリバーブがかかっていたのでMIXも似せた。

ちなみに、「夏草が邪魔をする」はヨルシカの昔のミニアルバムのタイトルだ。
今回動画も自分で作っているけれど、その際、「夏草が邪魔をする」の文字はミニアルバムのときのタイトルの色と同じにした。
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また、儚さを表現するために、文字が砂になって消えるようなエフェクトをつけた。

最後はラスサビ。
原曲の「手が触れたらもう」の部分に上ハモが入っていたので同じように入れた。
ラスサビについては、MVでエイミーがノーチラス号に乗っている自分の幻影を見たとき、何を思ってどうして涙を流したのかいまだに自分の中で正解を出せていなかった。だからここだけ、迷ったまま普通の歌い方をした。

歌が終わってからの演奏部分で、動画中にエルマの日記帳からの引用をいくつか載せた。
「それなら君はエルマだよ」や「君の指先には神様が住んでいる」など。初回限定版を買った人にはどのページに書いてあるかわかるだろうフレーズ。

最後の方には「何がしたい?」というエイミーの問いかけへのエルマの「やっとわかった。」という返答を引用した。
日記帳でも最後の数ページにでてくる言葉だ。

この後、エルマは日記を書くのを最後にして、エイミーの遺した詩で曲を作ることを決心する。

ノーチラスはアルバム「エルマ」の最後の曲であり、同時に始まりの曲でもあるので、ノーチラスの最後の演出としてその決意を端的に表す「やっとわかった。」を持ってくるのは自分の中では早くから決めていた。

こんな具合にいろんなことを考えながらこの歌ってみたを作った。

全部自己満足だと思う。

初めから「歌いたいから」この曲を歌った。だから、録音の過程ですでに満足している。

何度も涙を流して、こらえて、自分の歌の技術と真剣に格闘しながら録音していった過程こそが、僕がこの曲を歌うに当たって求めていたものだった。

それでも、やっぱり投稿してしまうのは、この曲とは無関係の僕の承認欲求だろう。

そう白状した上で、よければ一度聴いてみてほしいなと思う。

きっと、技術不足、度量不足でやりたい表現が伝わりきらない部分もあるだろうが、こういう気持ちで作った二次創作だよ、ということはここに全部書いたつもりです。よろしくお願いします。

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