セイレンチュウ..

青い鳥

お久しぶりです、なんて言って何人が「久しぶり」なんて返してくれるんだろう。

きっと両手で数えるまでもないくらいですよね。

 

今回は少し、思ったことを書き連ねていこうと思います。手記みたいなものです。長くなります、注意。

 

 

 

 

 

Twitterというサービスがあります。僕と同じくらいの世代だと99.9%くらい知ってるんじゃないかって勝手に思ってます。それくらい有名なものなので説明なしで進めます。

  

Twitterを始めたのは高校一年生の春、スマホを買ってもらってすぐのことでした。

なんで始めたかっていうと、確かYahoo!ニュースとかで若者の反応の象徴として取り上げられているのを見て、漠然とした憧れみたいなものを感じたからだった気がします。

高校生より上の世代の若者が、自分のロックな生活を書き込んでるところなんだ、と目をキラキラさせて登録したなんて、我ながら思わず当時の自分の頭わしゃわしゃしたくなるくらいかわいい考えです。こうして僕は大人の仲間入りを果たしたのです。そういえば、当時母に「あんたTwitterなんてやってるんだ」って言われました。それが「ませてるね」みたいな響きを帯びていたのが逆に嬉しかった。

 

いざ、始めてみると、何を書いたらいいのかわからない。これがまた。高校の同級生で当時Twitterをやっていた人は知っている限り二人とかだったのでとりあえずフォローしてどんなツイートをしているのか見てみました。

「電車に乗ってきた男の子が可愛くて頭なでなでしたくなっちゃった」

だから何!?

ほんとに「つぶやき」なんだなって感じました。僕は別に普段から「ああ、今日はいい天気だな」とかつぶやくタイプの変人ではなかったので、自分から意図的につぶやくという行為を行うのに非常に悩みました。つぶやきとはすなわちどうでもいいことなのです。どうでもいいことを人に見える場所にわざわざ文字として書きのこそうとは思わなかった。当時は。

 

そんな僕も次第にTwitterという不思議な空間に慣れて、学校の友達と返信しあったり、好きなアーティストをフォローしたり、なんだかんだ楽しむようになりました。

僕は学校でいわゆる陰キャでした。他の男子が女子に積極的に絡んだり、メールを送りあったりしているのを外から「おー」とか「すげー」とか言いながら話を聞いてました。

小学生時代はそんなことなかったと思うんだけど、なんでだろう。考えたときに、謎の公平性を重視していた自分が思い当たりました。僕からしたら女の子と1対1でメールするのは抜け駆けであり、ルール違反だったんです。意味わかんない。笑

その点、Twitterはルールの抜け穴でした。公開情報なのだから抜け駆けとかありませんし。学校で普段はあまり話さないような女子でもだるがらみしに行ってました。そういう意味で、Twitterは学校の外のもう一つのコミュニケーションの場でした。

 

次第にアカウントを作る友達も増えてきて、そうすると学校でみんなと話し、帰ってもTwitterでみんなと話し、他の子が放課後や休みの日に何をしてるだとかを知る、そんな生活になりました。鍵垢で互いの生活を互いにふぁぼ(懐かしいですねこの言葉)しあってました。優しい世界。

 

校二年生の秋になりました。周りが受験の話を始め、焦りから塾に入りました。(東進でした。)僕の高校では医学部を受験する人が多く、僕のように東京大学を受験する人はあまりいませんでした。そこで情報集めを兼ねて僕は新しいTwitterのアカウントを作りました。(ごめんなさい、少し嘘です。当時使ってた裏垢を改造して新アカウントとして使い始めました。)

 

とりあえず「東大実戦」とか「東大オープン」とかで調べました。すると世の中の化け物みたいに頭いい人たちのアカウントがぞろぞろヒットしました。世界は広いですね。広い世界を簡単に知れるのも青い鳥のいいところです。

そのアカウントたちに衝撃を受けつつフォローし、僕のTwitter人生第2章がスタートしました。アルミという名前はそのとき考えました。由来は秘密。

それまであった高校垢は受験シーズンになるにつれ過疎化していったので、この頃からこちらの垢がメインになりました。タイムラインで見るツイート内容はガラリと変わりました。日常系のつぶやきから一気に勉強色になりました。それはそれで刺激を受けることが多かったのと、僕自身勉強は嫌いではなかったので、この変化は自然と受け入れられました。

余談ですが、334や某ホモビデオの語録などインターネットアングラ(?)の文化(??)を知ったのもこの頃です。それまではそんなもの知る由もない健全(といってはあれですが)なツイッターライフを送ってきていたので初めはなんのことかさっぱりでした。今では平気で114514とか言っちゃいます。汚れちゃった。

 

さて、メインのアカウントを変えたとはいえ、自分よりはるかに頭のいい人たちを見ていると、自分はこんなことをせずにもっと勉強しなければならない、という思いが次第に芽生え、僕自身あまりTwitterに浮上しなくなりました。たまに模試の結果を載せたり、東大特進関連の情報を得たり、といった程度に適度にツイッターから離れていた時期でした。

 

そんな適切な距離感が功を奏したのか、無事東京大学に合格することができました。東大特進の合格祝賀会が東京で行われ、それに参加した際に、ついにこれまでTwitterで絡んだり、見たりしていた人たちを直接会うことになりました。思ったよりその人たちはずっと普通の人で、きっとそれは僕も同じで、なんだか不思議な感覚でした。

 

今思うと、もうこの頃から僕の分裂は始まっていたのかもしれません。

 

学に入り、僕は受験期に使っていたアカウントを使い続けました。単純にそのアカウントでフォローしあっていた人たちがそのまま東大に多く入っていたからです。大学に入るとTwitterを通じてさらに知人の範囲が広がりました。入学当初確か400~500くらいのフォロワーだったのが700くらいまで増えました。

Twitterつながりで会う人に名乗る時は僕は「アルミ」でした。不思議な感じ。現実で先に知り合った人には本名で呼ばれて、Twitterが先の人にはハンドルネームで呼ばれる。その二つが同時に出くわしちゃうと少し説明に困りました。

あとは高校同期とか親の前でそういうことになったら少し嫌だな、とも思ってました。本名は18年の付き合い、ハンドルネームはたった2年の付き合い。9倍です。トリプルスコアもびっくり。まだ自分を表す名前としては本名の方が圧倒的に大切でした。

 

そんな状況であったものの、大学で新しい知り合いが増えるのはTwitterからということが多かったので、次第にハンドルネームで呼び合う層が優勢になりました。変な感じはしましたが、何度か言っているようにこういう形で知り合いが増えていくのは不思議な感覚も相まって素直に楽しかったです。

 

しかし、忘れてはダメです。僕は本来現実世界でこんなにたくさんの人と関わっていい人間ではなかったのです。Twitter上でしか許されていなかったんです、日陰者だった高校の時からずっと。

僕は、現実世界でそんなに多くの人間関係をつなぎとめておけるほど器用な人間じゃありませんでした。次第に仲のいいメンバーは固定化していき、また、移り変わっていきました。一時期は仲のよかった人と、すれ違っても話しかけるか迷うくらいの仲になってしまうのは、自分のせいだし、とても申し訳なさと寂しさを感じます。

そして同時に今現在仲良くしてくれている人ともいずれそうなってしまうんじゃないかという不安も強く感じます。自分次第でどうとでもなる問題だとは思うんですが、人ってそう簡単には変われない生き物なので、怖いです。

これが今の不安の片っぽになっています。

そしてもう片っぽが次です。

 

学生活も四年目に入り、アルミという自分のドッペルゲンガーができてからはもう六年目になります。次第に自分の中で勢力を増す彼に少し不安を覚え始めました。

高校同期の多くの人は大学に入ってからの僕をあまり知りません。僕を本名で認識している人たちにハンドルネームとしての僕を語るのは少し覚悟がいります。なぜかは良くわかりませんが、転校した時の初回の自己紹介の気恥ずかしさみたいなものなんだと解釈してます。

そういうわけで、最近、高校同期の一人と会った時も、僕は「アルミ」に関しては触れないで会話をしました。すると僕は大学に入った後の話をほとんどできない自分に気づかされました。それは大学生活の中での本名自分の勢力がとても弱まっていることの証拠でもあります。今の自分はまるで大学入学前の自分を自分から切り離してしまったかのようです。

前に述べたように年数で見ると本名は21年、ハンドルネームは5年。親からもらった名前に自分が考えたヘンテコな金属の名称は当然勝てません。まだ大切さでは本名の圧勝です。

しかしこれから先ハンドルネームが本名を脅かすくらい生活に浸透した時に僕はどうなってしまうのかを考えるととても不安なのです。

 

 

ッペルゲンガーくんが勢力を強めた影響は上で述べた二つの不安の他にもあります。そしてこれこそが今回この記事を書こうと思ったきっかけです。

僕は明らかにTwitterに囚われている時間が多くなりました。(あえて囚われるという表現を使います。)

現実をTwitterが侵食しています。自分の生きている世界の移動がじわりじわりと進んでいっています。それは本名がハンドルネームに侵食されるのと同じ構図です。Twitter世界で会話をし、Twitter世界で居場所を求め、それがいいねの数だとかフォロワーの数を気にする所に出てきています。誰かにブロックされていないかを気にする気持ちは現実世界で誰かに嫌われたくないと思う気持ちと全く一緒です。ほんとはたかがSNSで誰に拒絶されていようがどうでもいいはずなのに。

 

もっとタチが悪いのは、Twitterという世界は自分がいなくなっても特に大きな影響がないことです。大抵の人はたくさんの人がつぶやいているタイムラインを気が向いたときにチラッと見るだけなので、誰が最近呟いていないだとか気にすることは普通ありません。本来そういう淡白な空間なのです。居場所にはなり得ない。

それが自然なことなのに、Twitterという世界で生活を始めた僕はその世界での居場所を求めます。つまり、虚無を追い求めているのです。いいね数やRT数が承認の証だと信じ込んでそれを欲しても、本質が虚無なのだから満たされることはありません。

 

 

そもそも他人からの承認を得る必要があったでしょうか。解決のために突き詰めて考えて行ったら一つの自問自答にたどり着きました。

「他人以前に自分が自分を承認しているのか?」

答えはNoでした。なぜそうなっているのかを考えると、自分に誇りを持てる生き方をしてこなかったからだと思います。特に大学入学後。後悔した経験は自己を否定する気持ちしか生み出しません。

 

 

 

て、長くなりましたが、そろそろまとめたいと思います。

何を言いたいかというと最後の方に言ったことにつきます。他者の承認を求める以前に、自分の承認を得る。そのためには別にTwitterは必要ありません。

ちょうど院試が数ヶ月後に迫っています。院試が終わったとき、自分に向かって自信を持って頑張ったと認めてあげられるように、一旦ドッペルゲンガーくんとはさよならしようと思います。

大学に受かったあたりの、いい距離感に戻れるように。

 

 

これ読むとTwitterやめるの?とかハンドルネームで呼ばれるの嫌だったの?と思う人がいるかもしれませんが、そういうことではないです。適切な距離と割合を改めて設定しようっていう自分に向けた話なので、そこらへんは気にしないでいただけたら嬉しいです。

 

長文、かつダラダラと思ったことを書き連ねていくだけの文章でしたが、もしここまで読んでいただけて何か考える材料を提供できたのなら幸いです。それでは。